2010年04月20日

FERRARI 412P NART No25 Le Mans 1967

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Scalextric“FERRARI 412P NART No25”Le Mans 1967

ホワイトにブルーのライン、フェラーリとしては珍しいものだが、これはフェラーリではなく、プライベートチーム“NART(NORTH AMERICAN RACING TEAM)”所属の“412P”である。
67年のルマンに参戦したが、スタートして11時間後にピストンの故障でリタイアとなっている。

“NART”の創設は1964年に遡る。
この年フェラーリは、スポーツカーレース用マシンでは初のミッドシップとなる“275LM”を製作した。しかし、車両のホモロゲーションを巡ってFIAと対立(公認規定の100台という年間生産台数をフェラーリは大きく下回る32台しか生産していなかった)。怒ったエンツォは競技者ライセンスを返上してしまう。しかしこの年はジョン・サーティースがチャンピオン争いに加わっており、欠場は許されなかった。そこでエンツォの旧友で、北米でのフェラーリ販売とレース活動を担当するルイジ・キネッティが折衷案を持ち出し、自身のチーム“NART”からエントリーすることとした。ホワイトのボディにブルーのラインは“NART”のチームカラーなのだ。

ルイジ・キネッティ自身は、1901年ミラノに生まれる。第1次大戦後にアルファ・ロメオに入社、メカニックからレーシングドライバーになり、“Alfa Romeo 8C 2300 LM”を操って見事に32年と34年のルマンで優勝している。もちろんエンツォとはアルファで友人となったが、イタリアにムッソリーニのファシズムの嵐が吹き荒れると、それを嫌ってフランスに移り住んだ。40年にはインディ500のチームの一員として北米に渡ったが、第2次大戦の勃発でそのまま留まることとなる。戦争が終わりイタリアに一時帰国した際にエンツォと再会、その際にエンツォの名がついたスポーツカーの製作を勧め、それがフェラーリの誕生となったと云われている。
キネッティ自身は戦後もドライバーとしてレースに参戦。49年には戦後第1回のルマンに出場、“FERRARI 166MM”を操り、見事に優勝、ルマンでの初優勝をフェラーリにもたらしている。

彼のレーシングチーム“NART”は全米のみならず、欧州でも活躍し、特に65年のルマンではグレゴリー/リント組の“250 LM”が優勝するという快挙を達成している。そしてこれがフェラーにとっての最後のルマン優勝となっている。

その後も活躍した“NART”は82年を最後に解散、キネッティは94年にこの世を去っている。

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posted by ジャンニ at 20:57| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリア車 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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